大阪大学大学院人間科学研究科教授 岡部美香氏

岡部教授が提唱する「学びほぐし(アンラーニング)」の概念の解説を聞く参加者たち=いずれも神戸新聞社

講演後、心と体をほぐすカードゲームで交流した

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更新日: 投稿者: 神戸新聞社

無料公開講座 「答えへの教育」から「問いへの教育」へ ―アンラーニング(学びほぐし)のすすめ―

大阪大学大学院 人間科学研究科教授 岡部美香氏

 大阪大学人間科学部は1972年、日本で初めて「人間科学」という言葉を冠した学部として設立された。「実践的」「国際的」「学際的」という三つのスローガンを掲げ、さまざまな学問分野が集まって社会問題を解決することを目指している。

 私自身の専門は教育人間学だ。実際に人によって話された言葉や書かれた言葉、つまり人によって「生きられた言葉」がどんな状況でどのように使われているかを調べ、その真の意味を理解しようとする臨床教育学と言い換えることもできる。

 言葉は辞書に載っている意味通りに使われていないことが多い。例えば「おはよう」という言葉は単に朝のあいさつではなく、その人のその日の様子を判断する材料になっている。「ごめんなさい」という言葉も、目の動きや声色から判断して、額面通りそれを「謝罪」と受け取らない人もいる。

 教育の領域での言葉の使い方は、人々の認識や態度に大きな影響を与えるため、特に慎重になる必要がある。

 例えば、「不登校」という言葉は今では当たり前のように使われているが、以前は「登校拒否」という言葉が使われ、それが置き換えられた。後者は「行ってやるもんか」という本人の意思が感じられるが、前者は本人が行きたいと思っても行けない、教室までは行けないけど保健室までは行けるというように登校できない状況を広く含んでいる。

 また、「学力低下」という言葉についても、実際には国際学力テストの参加国が増えたことで日本の順位が下がっただけという背景があるにもかかわらず、以前より勉強ができなくなったという意味での「学力低下」という言葉が独り歩きしている。

 従来の日本の教育は「答え」を知ることに偏り過ぎており、「問い」を自ら見つける力を育てることが不足していた。そこで20年ほど前から、自ら問い(課題)を見つけ、その解決の方法も自分で見つけられる子どもを育てようと、小、中、高校において、総合的な学習の時間や探究の時間が導入された。ところがなかなかうまくいっていない。

 大阪大学では、大阪・関西万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」の実現に向け、未来の担い手である高校生、大学生の本音である「いのちの声」を、経済団体や大学で構成する「いのち会議」に届ける活動に取り組んできた。私はその活動を通じて、若者が自分の本音や意見を表現することに難しさを感じていることに気づかされた。若者たちの主体的な声が、大人たちや部外者の文脈によってかき消されてしまったり、「みんなが言っていることや社会が求めることを言わないといけない」というように空気を読む若者が増えたりしていることが影響していると考えられる。

 では、問いや本音を出してもらうためにはどうすればよいのか。私は「学びほぐし(アンラーニング)」という概念を提唱したい。日本では学び直すことという解釈もなされているが、私の理解は自分の知識や考え方を絶対視せず、「うまく分からないでいられる」「あえて言わないでいられる」状態を大切にすることだ。人は何かを「分かる」ようになると、「分からない」状態がどういうものかを忘れてしまい、分からない人の気持ちが分からなくなるという「罪」を背負う。

 例えば、人は生まれ持って足し算、掛け算ができたわけではないが、できてしまうとそれが当たり前になって、それができない人がどんな思いでいるかが分からなくなる。また、分かってしまうと、それが分からない人に対してすぐに教えようとしてしまう。そこで待たないと、自分でできるようにならないということが分からないのだ。

 学びほぐしとは、これまでの学習や経験を通して身に付けた、自分が暮らす社会では当たり前とされている知識やものの見方をいったん脇に置いて、新しい知識や異なるものの見方に対してオープンになることだと整理できる。「学びほぐし」のためには、あたり前のように使われている言葉は他にどういう言葉に言い換えられるか、他人が報告していることについてまた別の人により分かりやすく報告するにはどう報告するのかを考える習慣をつけるとよい。答えを見つけるのではなく、答えまでにどんな道のりを進んだらいいのか、自分とは持っているあたり前が違う人だったらその答えがどんな風に見えるか、というようにあえて分かっていることでももう一度問うてみる、「問い」を面白がってほしい。

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